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2005年09月28日

八人目の佐賀賢人#2


幸陽軒 ラーメン550円

幸陽軒 ラーメン550円

ラーメンの世界では、飽くことなく繰り返される「議論」がある。

それは、「旨み調味料は是か非か」というものである。
美味くて安いなら「是」じゃないか、食べたあと舌が痺れるような過多な量では「非」だろう、とかとか。

絶対音感ならぬ絶対味覚なんてのは存在しないんだから、なおさら結論は出ず、予定調和にもならない。
しかしまぁ、目の前で丼に堂々とドッチャリ投入されると、ひくのは事実。

何事においても「表と裏」が存在する。
視点のベクトルを変えれば、アウトプットされる評価なり見出される価値観が180度変わる。

歴史的な事実とされていることでも、新しい史実の発掘や評価のやり直しで昨日まで善とされていたものが悪となったり。


てなわけで、前回のエントリーを下書きしたあとに、少々確認の意味でネット上をうろうろしていると新しい事実が・・・。

製麺機は真崎照郷の発明と書いていますが、鶴沢栄吉という真崎とは同郷である人物がからんでいるらしい。
でいろいろ調べていると、「日本の技術者-江戸・明治時代- 中山秀太郎著 2004年・社団法人 雇用問題研究会」なる本にぶち当たる。

28人の技術者を取り上げているが、その中の一人が鶴沢栄吉を岳父とする大隈栄一である。
28人のうち4人だけが他の技術者より倍のページを費やされているのだが、その一人が大隈栄一であり、「日本の発明王は、東は豊田佐吉、西は真崎照郷」の豊田佐吉なのである。

三田川村目達原生まれの大隈栄一は、佐賀で鶴沢と共に佐賀麺機製造合資会社を経営していたが、その後袂を分かち、大隈麺機商会を明治39年に名古屋で起こした。それが、巨大な工作機械メーカー・オークマ株式会社の前身となっている。豊田佐吉と大隈栄一は共に名古屋の地で、機械工業の礎を築いたのである。

前述の「日本の技術者」によると、大隈栄一は製麺機発明に関し、以下のような手記を残しているらしい。(なかなか長いんで要約です)


ロールで麺帯をつくり次にロールで麺線をつくる製麺機を発明したのは、真崎、鶴沢と同郷で親しかった蒲原末次郎である。蒲原は元鍋島藩の士族で、一種のうどん機械を発明し博多で機械うどん屋を始めた。機械自体は完璧ではなかったが、元祖に違いない。

その後、真崎と鶴沢が製麺機の完成に取り組んだ。
鶴沢は明治27年に素麺のできる機械を特許申請に持ち込んだが、真崎はそれをねたみ鶴沢と疎遠になっていった。


まっ、大隈の手記なんで、全て信じ込むわけにもいきませんが、なんとも微妙。
私の中の真崎への「思い」がストップ安。(笑)歴史の裏には女ならぬ怨念ありということか。
しかしながら、大隈栄一という「八人目の賢人」が見つかったというわけで、良しとしよう。

進化論をめぐるダーウインとウォーレスの関係を想像させ、蒲原末次郎には興味が湧くなー。
もしや、てろてろ博多うどんに何がしかの影響を与えたりしていて・・・。



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2005年09月24日

八人目の佐賀賢人

■トラバ先
なみログ20050910エントリー


駅前ラーメン ビッグワン

駅前ラーメン ビッグワン

先日、雑誌の取材を受けました。

じゃらん九州発」という雑誌です。
ゲラ刷り原稿を拝見したのですが、どうやら「○○に旅行・出張ならココに行っとけ!」てなカンジの連載記事のようで、佐賀駅から近い、ラーヘメン店や居酒屋などが紹介されるようです。

で、ラーメン店は3軒を紹介されるようで、(その選定は雑誌側ですが)私は佐賀ラーメンの「傾向と対策」を熱く語ってきました。(笑)
11月1日発売とのこと。

ところで、その取材時にライターの方が言われた言葉に、ちと考え込みました。

「佐賀ラーメンをはじめて食べましたが、なかなかおいしいですね。今住んでる福岡市内でもラーメンを食べることはあるんですが、今回のようにスープを全部飲み干してしまうことは、めったにありません。佐賀ラーメンって、なかなか話題にならないんですが宣伝下手なんでしょうか・・・」

うーん、これってラーメンに限らず、佐賀全般にわたりよく言われる言葉ですね。
佐賀人って佐賀が田舎ということを必要以上に卑下しているのか、あるいは地元マスメディアや行政規模が人口に比例して小さいから情報発信が少ないからなのか、はたまたただ単にシャイなだけなのだろうか・・・。


そんななかで、ある本が出版されました。

佐賀の幕末維新 八賢伝  福岡博著」がその本です。

幕末維新に活躍し「佐賀の七賢人」と呼ばれている七人に、枝吉神陽を加えた「八賢人」の「生き様」を記した本です。
グロバールスタンダードなその活躍・業績を知り、佐賀に誇りをもとうと著者は語りかけています。

「七」ではなく「八」として、八人の人をとりあげたのは、幕末維新期の佐賀からは、七賢人に数えられた人たちのほかにも、たくさんのすぐれた人物がでているのだということを知って欲しいからなのです。「八」という数字は、たんに「八つ」ということだけではなく、「八百八町」などということばもあるように、数が多いことを意味します。

という、著者の言葉にのせられて、私の「八番目の賢人」を紹介します。

その人物とは、真崎照郷です。八賢伝の中で一番後年に生まれたのが、1838年生まれの大隈重信ですが、真崎照郷はさらに時代をくだり、1851年の生まれです。

真崎照郷は佐賀郡巨勢村牛島(現佐賀市巨勢町)に生まれています。
明治18年に日本ではじめての製麺機を作り、特許を出願します。
その当時、特許に関する法律は未整備で、仮受け付けの状態のまま時間が推移し、明治21年にようやく法が整備され特許が認められたようです。

神埼・小城の熟練が必要な手延べそうめんの製法を見て、もどかしく感じたことが発明の動機でもあったようです。
明治40年には、佐賀県ではじめての藍綬褒章を受けたりしています。
大正9年には、帝国海軍の軍艦「巖手」に真崎製麺機が搭載されています。

真崎の発明した製麺機は、発明当初は高価だったため普及は緩やかで、大正になってぼつぼつ、昭和に入ってから、その動力が電動モーターになってから爆発的に普及し、佐賀の地から日本全国といわず全世界にその製麺機は広まっていったようです。
そういえば、佐賀県の広報誌「Zanza」の最新号の特集は「噂の麺王国」でしたが、そのなかでも真崎の紹介がされていました。

真崎照郷が起こした会社が昭和24年に出した製麺機の広告用小冊子が佐賀県立図書館に所蔵されていました。
その「真崎製麺機械御案内」には、四季ごとの製麺の際の塩水の濃度及びその塩水と混合する小麦粉の量が記載されています。また、生うどん・乾燥麺・蕎麦・支那蕎麦・玉うどんという麺種ごとの製造方法も。

現在のラーメンである支那蕎麦の製法では、使用する切刃のサイズ、かん水の量などを指定した上で、「普通ノ如ク製造スレバ苦モナク出来マス」と、自家製麺で苦労している、現在のあまたのラーメン店主が聞けば卒倒しそうな言葉が!!まっ、戦後直後の味よりは、まずは腹を満たしてという状況ならではなんでしょうか。

ラーメン・エンスーな私にとって、製麺機発祥の地が佐賀だということは、トンデモナイ自慢ネタです。(笑)

出典は定かではありませんが、「日本の発明王は、東は豊田佐吉、西は真崎照郷」といわれた時代があったそうです。
豊田佐吉は、トヨタ自動車工業の礎となった、豊田自動織機製作所の創始者です。
その人物と並べて論じられる真崎照郷の偉大さは、容易に想像が出来ます。


さてさて、あなたの八人目の「佐賀賢人」は誰ですか?
いやいや、あなたこそが八人目の「佐賀賢人」になれるはず・・・。


(で、何故かこのネタ続きます)

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2005年09月22日

ぎゃぼ!!プリごろ太、カラオケ・ベトベンでみそ字に「ラーユーレディー~?」

■トラバ先
折田裕blog B 20050815及び20050827エントリー
のだめカンタービレからのクラシック入門 20050923エントリー
おがりんのお気に入り~★ 20050715エントリー



土佐屋 塩ラーメン

土佐屋 塩ラーメン・ photo by  (-。- たかまさ


初めて東京に一人で行った時のことである。
東京駅の構内で入ったラーメン店で、「チャーシュー麺」をオーダーした。

出てきたのは、醤油色が濃いなんとも不気味な麺料理。
「??オーダーミスか??」
私は疑心暗鬼ながら、クレームを付けるのも気恥ずかしいんで、そのまま食したのである。

今思えばバカみたいな話であるが、ラーメンといえば「豚骨」しか頭になかったので、目の前に出てきた否豚骨ラーメンが、ラーメンだとはまるっきり思い至らなかったのである。(醤油ラーメンだったのだろう)

確かに、「出前一丁」や「サッポロ一番」などの袋物の否豚骨インスタント麺は食べていたのだが、ラーメン店で出てくるラーメンは、全国どこに行っても豚骨オンリーだと頑なに(あるいは無意識に)思い込んでいたのである。

多分私以外の九州人の多くが、ラーメン=豚骨という認識が強く、ある意味「否豚骨」に対しては排他的なのではなかろうか。


東京の出来事から、十数年が経過した頃である。
豚骨ラーメンを意識して食べ歩くようになった私にも、すんなりと受け入れられる否豚骨ラーメンの店に出くわした。

その店の屋号は「土佐屋」。国道208号線沿いで諸富町にあった。
知るきっかけとなったのは、あまおじさんのらーめん紀行というサイト。
そのなかなか良さげなコメントに惹かれ食べに行ったのである。

なかなかのお気に入りだったんですが、3年ほど前に閉店してしまいかなり残念でした。
貴重な店だったのになー。
閉店後しばらくして、カラオケパプに変わっていたのでした・・・。


ところで、のだめカンタービレである。

なかなかオモシロそうだなと思っていたが、なにせ少女マンガであるので踏み出せずにいた。
実際読んでみようと突き動かされたのは、オン上で少々絡ませていただいている、折田裕さんのブログで紹介されていたのを読んだから。

折田裕さんは、ミステリー小説「死んでもいい」で九州さが大衆文学賞受賞された方である。
こんな方が絶賛されているのなら、間違いはないだろうという考えであった。
どうやら折田さんは私より年上のようである。
なら、私が読んでもおかしくはない(!?)と書店の少女コミックコーナーに滑り込み、コミック全12巻を大人買。

少女コミック作家にはまったのは、くらもちふさこ以来かなー。
とにかく秀逸なギャグは、ツボにグサグサ刺さる。
まっ、見事なメインストーリーあってのことなんだが・・・。

で、コミックの9巻では、主人公の「のだめ」こと、野田恵を追って恋人役(?)の千秋真一が、大川市(のだめの実家)へ行くシーンがある。

博多駅からタクシーで千秋真一が大川へ向かうシーンでは、いったん佐賀に入り大川へ向かおうとする運転手が「大川ってほとんど佐賀だからー」と発言。
よく言われる「基山はほとんど福岡だから」の逆バージョンである。(笑)

「ようこそ佐賀へ☆ 佐賀のりの里」 という看板を眺めつつ、千秋真一はのだめの実家へ。

のだめの父に観光へと連れまわされる千秋真一。
その途上に、出現するのは、「カラオケ ベトベン」の看板。

おー、これは「土佐屋」のあとに出来た「カラオケパブ ベートーベン」ではないか!!
スンゴイ感激。


カラオケ・パプ ベートーベン

カラオケ・パプ ベートーベン


で、千秋達が着いた所は東与賀町の干潟公園。

「面白し 沖へはるかに汐ひきて 鳥も蟹も見ゆる 有明の海」

という、昭和天皇の歌が刻まれた行幸記念碑のある展望台で、のだめ父と共に望遠鏡を覗き込む千秋真一の図には、仰天歓喜でした。


展望台

展望台


有明海の干潟

有明海の干潟

主人公のだめには「リアルのだめ」と呼ばれているモデルがいるのですが、リアルのだめの実家が大川なんで、ロケハンが大川、佐賀で行われたようです。

やっぱ、有明の干潟は初めて見る人にはインパクと与えるでしょうね。
吉野ヶ里は行ったのかなー。絵的に干潟が取り込みやすかったからかなー。
某潟方面出身の私は、潟が卑弥呼に勝ったと信じたい。(爆)

のだめカンタービレの作者である二ノ宮知子さんの目に、佐賀はどう映ったんでしょうか。

ちなみに最近買った、コミック13巻についてた栞は、街の中華屋「裏軒」の息子・峰龍太郎でした。
ラーメン好きには、たまらんとです。(爆)

トラバ先のおがりんのお気に入り~★によるとヤマハ銀座店では、「のだめカンタービレSelection CDブック」購入時にチラシを持参すると、 「佐賀のり」がプレゼントされるという。
うーん、佐賀のり素敵だっ!!

てな、展開で冬季限定の「のりラーメンいちげん」が激しく食いたい・・・・。


いちげん のりラーメン

いちげん のりラーメン





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2005年09月17日

佐賀スタイルは滋味哀愁系

三九中華そば専門店 ラーメン・500円
三九中華そば専門店 ラーメン・500円


てなわけで、「佐賀ブログ」の始まりです。


佐賀のラーメンについての日記blogをシコシコと書いてきたワタクシですが、どーも飽きてきたもので路線変更です。

まっ、PRIDEの高田統括本部長がハッスルの高田総裁に変身するようなものである。(違うか?)


と言いつつ、ファースト・エントリーの今回は、いままでの私の「ネット活動」を振り返りつつ、佐賀ラーメン、ひいては佐賀の魅力を語ろうかなと思い至っている次第である。
決して、過去のテキストの使い回しではありません。(多分・・・)


佐賀で初めてのラーメン店は、昭和28年に佐賀市呉服元町(?)に開店した、「北京千両」とされています。
「北京千両」はその後、現在の南国ビル@佐賀市大財町の西側の水路沿いに移転し、さらに現在は、巨勢町にて「シャローム」と屋号を変えて営業されています。


九州で初めてのラーメン店は、久留米の「南京千両」という屋台でしたが、「北京千両」の開店以前に、佐賀市内には久留米から来る屋台のラーメン店があったようです。
日本陸軍の「南京占領」をもじって命名されたと言う「南京千両」を、さらにもじった「北京千両」という屋号は、ちと微妙な心持ちにさせられます。

ちなみに、ラジオパーソナリティー「ヒーマン」さん の、つれあいさんの実家であるラーメン店「北京ラーメン@大和町」とは、無関係のようです。


昭和30年には一休軒本店が開業しています。
どうやら一休軒の手本となったのは、白濁豚骨スープの発祥店とされている「久留米の三九」らしいのですが、「三九」の創業者の杉野兄弟の弟さんとその杉野兄弟から三九の営業権の譲渡を受けた四ケ所さんが、相次いで昭和31年に佐賀市内にラーメン店を開業されています。

杉野弟さんのお店は「三九軒」という屋号でした。(柳柳亭の近くでしたが、平成13年に閉店しています)
四ケ所さんのお店は、「三九中華そば専門店」で、現在も玉屋西で営業されています。


四ケ所さんは、「三九」を引き継ぎつつ、熊本県玉名に支店を開き営業されたようです。
その味が、あっという間に熊本・宮崎・大分に伝播し、「白濁豚骨」が九州ラーメンのデフォルトとなったのです。
それに、出前の時に丼にビニールを被せ輪ゴムで留めるというアイデアも四ケ所さんの発案らしく、まさに、四ケ所さんの人生そのものが、「白濁豚骨ラーメン」の歴史そのものだと言えそうです。


福岡のラーメン、長崎のちゃんぽんに対抗しようと、「冷し麺キャンペーン」なるものが佐賀市のお店を中心として、昨年から展開されています。
佐賀の食材を活かし、従来の「冷し中華」にこだわらず、中華やフレンチのテイストをハイブリッドさせ、二大麺王国に伍しようという意図なのでしょう。

それはそれで、素晴らしい「戦略」なのですが、どーも何かひっかかるものがあるのも事実。
以前、「佐賀を探そう」という観光キャンペーン用のコピーがありましたが、必死に探し当てようと努力しなくても佐賀には、昔から脈々と生き続ける「良さ」があるのです。
そう、ふと立ち止まり、「気付き」さえすればいいのです。


一休軒系や古くからの佐賀のラーメン店のラーメンは、概してファーストインパクトは弱いようです。しかしながら食べ進むほどに、じんわりと豚骨の出汁の旨みが体内に浸潤していく様は、博多・長浜ラーメンのどちらかと言えば、醤油系の元ダレの味を大きく感じるラーメンに劣ることは決してないと確信させてくれます。

中細のストレート麺が軟目に麺揚げされる佐賀ラーメンの傾向は、「バリ硬」や「針金」と呼ばれ、もてはやされる長浜ラーメンなどの極細麺との対比からも、哀愁度ワンランクアップです。(笑)

「滋味哀愁系」と、私は勝手に呼んでいますが、シンプルなのに奥深く、古いのに飽きを感じさせることのない佐賀ラーメンの持ち味は、ラーメンのカテゴリーを超えて、マクロな「佐賀の顔」と言えるでしょう。


佐賀のラーメン店は、昔ながらの「軒」の屋号を持つ店が他地域に比べ多いようです

経済的には小さなマーケットゆえに、チェーン店等の外部資本に淘汰されてしまう確率も低かったのかもしれません。
が、それゆえに昔ながらのやり方に頑なにこだわり、時代の趨勢に左右されない姿勢を貫くことが出来たというのは、不幸中の幸いということでは片付けることの出来ない、佐賀人の佐賀への愛着のような気がします。


「佐賀を探そう」というコピーの前に「人情産地佐賀」というコピーもありました。
当時は、ことさら「人情」を取り上げるのはおかしい。人情は、あって当たり前だろうという批判が多かったようです。

下記は、ラーメン評論家の武内伸氏が、ガチンコラーメン道でブレイクしたカリスマ・ラーメン職人(笑)佐野実氏と佐賀ラーメンを食べ歩いた時のことを書いたテキストの抜粋です。


私たちが地方に行くと、どこでも歓迎してくれるが、人によっては裏心が見え隠れしているのを感じる時もある。しかし、佐賀の人たちからは、心から歓迎してくれる気持ちがひしひしと伝わってくる。これまで佐野さんと2人であちこちの地方に行ったが、人の良さでは佐賀がいちばんではないか、というのが2人の一致した見解である。


「人情産地佐賀」というのは、あながち見当違いではなかったのではないでしょうか?


強要された「郷土愛」やアジテートされた「町おこし」というベクトルとは捩れの位置の、単純に暮らしていて「心地よい佐賀」が、私は好きなのです。



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