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佐賀のお菓子に歴史あり-。
大隈重信侯が愛した故郷 の味。
2007年05月31日
幕末維新期、近代日本の礎を築いた佐賀の先人たち。かつて、佐賀・鍋島藩は約36万石の栄華を誇り、明治政府の要人に何人も抜擢されるなど、佐賀の賢人たちは全国的に大活躍しました。鍋島藩10代藩主、鍋島直正公をはじめとする「佐賀の七賢人」と呼ばれる人物の中で、ひときわ目立っていたのが、希代の大政治家・大隈重信侯。彼は故郷の味を大切にし、中でも丸ぼうろがお好みだったとか。今回はそのエピソードを紹介します。
大隈侯の原点を作った佐賀の青春時代
「近代日本の設計者」と言われ、明治政府では二度の総理大臣を歴任し、早稲田大学(東京専門学校)を作るなど、佐賀が生んだヒーロー・大隈重信侯。彼は城下町の佐賀市水ヶ江に生まれ、31歳まで佐賀藩士としてこの地で青春時代を過ごしました。
7歳の時に藩校・弘道館に入学、軍隊のような厳しさで知られる弘道館で、のちに校内改革をとなえ、放校処分になるという豪快なエピソードの持ち主でもあります。また、今も残る大隈重信旧家の屋根裏にしつらえられた、大隈侯のための勉強部屋には、勉強中に眠くなった時に頭を打ち付け、気を振るったという木の柱も残っています。のちに彼は長崎に渡り、フルベッキに外国語を学び、明治政府では外務大臣としても活躍しました。
東京に居を構えても忘れなかった味

大隈侯生誕125年を記念して、昭和41年(1966年)に開館。内部には大隈侯ゆかりの展示物や、ビデオ、スライドの展示があり、護身用の日本刀入りステッキなど、貴重な展示物もあります。特徴ある外観は、玄関の扉は大きな口、ひさしと赤いステンドグラスは早稲田の角帽、建物の左に空いた穴は切断した右足…と身長182cmの堂々たる体躯を持った、大隈侯すべてを表しています。大隈重信旧家(国指定史跡)も隣接、銅像も建っています。
大隈侯は当時としては長生きで84歳、大正11年(1922年)まで生きています。そのうち、佐賀より東京で過ごした時間の方が多く、大隈といえば、「東京・築地」というイメージが強いですが、彼は故郷・佐賀を忘れたことはありませんでした。
時は1896年(明治29年)、総理大臣2度目の就任時、母・三井子の一周忌に帰佐し、お寺に行く前に立ち寄られたのが、今回の店主訪問記でとりあげているお菓子司「鶴屋」さんです。その折、茶菓として献上された丸ぼうろを食べた大隈侯は「ほかに類例少なき風味」とその味に大変感動したそうです。東京に戻った大隈侯が、丸ぼうろの味を懐かしんでいると聞き、「鶴屋」11代目の善吉は職人を伴い上京。大隈侯の邸内でかまを焚き、作った丸ぼうろを献上しました。大隈侯は涙を流さんばかりに喜び、いくつもいくつも故郷の味を楽しんだそうです。
「たえず学び、行え」-佐賀と母と大隈侯
大隈侯は大政治家になった後でも、ともかく人と会うことを好みました。これは、幼少時代から、人を愛し、慈善を施すことを好んだ、母・三井子の教えに従ったものでありました。大隈侯にとって、母・三井子は原点であり、故郷の佐賀そのものでした。それは、水ヶ江にある「大隈記念館」でその思いやおもかげをしのび観ることができます。時に大隈侯51歳、明治22年(1899年)、暴漢の投弾に遭い、右足を切断することになってしまうのですが、その時も暗殺未遂の犯人を「愛国の精神をもって行動したる志士なり」と称賛したというのですから、大隈侯という人物の非凡なスケールぶりがうかがえます。
大隈侯は佐賀に戻ることはなく、東京で人生の幕を閉じますが、大隈侯が佐賀にいたままだったら、一体今現在の佐賀はどうなっていただろう…などと想像もしてしまいますね。東京遷都論をとなえたのも、大隈侯の仲間である「佐賀の七賢人」たち。大隈侯のような佐賀の賢人がいなかったら、東京も、今の世の中もなかったといっても過言ではありません。東京で大活躍しながら、故郷・佐賀を愛し続け、銘菓・丸ぼうろを愛し続けた大隈侯。「たえず学び、たえず行え」をモットーにしていた大隈侯。佐賀の誇りたる人物ですね。
| 所在地 | 佐賀市水ヶ江2-11-1 |
|---|---|
| 電話 | 0952-23-2891 |
| 開館時間 | 9:00~17:00 |
| 休日 | 月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始 |
| 入場料 | 大人300円、子ども150円 |
| アクセス | JR佐賀駅からバスで約15分 |
投稿者 さがファン : 2007年05月31日 20:27
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